鏡の中の暴力 悪を糾弾する手が悪と同じ形になる瞬間
সর্বোচ্চ র্যাঙ্ক : 3 , আপডেট করা হয়েছে যাতে: ২২ জানুয়ারী, ২০২৬ ৮:১৪:১৪ পূর্বাহ্ণ
主題 ; 鏡の中の暴力
副題 ; 悪を糾弾する手が悪と同じ形になる瞬間
[1] 根幹をなす主張
昨今のTwitterに代表される各種SNSでは、あたかもそれが流行であるかのように、相次いで暴行動画が投稿され、広く拡散されている。当然、それらの動画内で記録される行為は、法治国家を自称する現代日本においては、道徳·倫理の立場からは勿論、法律の立場からも激しく糾弾されるべき狂気を孕んだ行為に他ならない。だがその一方で、所謂「加害者」に対する私刑が横行している現状に、私は強く確かな違和感を覚える。
[2] 根拠の提示
まず、私の主張を支持する根拠を、いくつかの視点から整理する。
(Ⅰ)娯楽化する正義 -正義は消費される?-
SNS上で拡散に加担する大多数のユーザーは第三者に分類される立場にあるにも関わらず、熱心に加害者を糾弾しあまつさえ実世界での正体を暴こうと躍起になる。これ等は加害者を糾弾することで得られる全能感や、またその行為自体がその個人のストレス収束のプロセスに組み込まれている場合があるのではないか。実際に被害者がいる切実な、余りにも切実な問題が、群衆によってエンターテインメント化されているSNSの構造を「良し」としてよいのか。
(Ⅱ)「加害者になら何をしても許される」≒「虐められる側にこそ問題がある」 -構造的類似性-
(ここでは、「加害者になら何をしても許される」という論述を前者、「虐められる側にこそ問題がある」という論述を後者とする。)
前者......「悪事を働いたのだから、どのような制裁を受けても、それは自業自得だ」と、報復を正当化する。(私刑肯定論)
後者......「酷い目に遭うからには、本人に何かしらの原因があるに違いない」と、加害を正当化する。(被害者落ち度論)
このどちらもが、「落ち度がある人間には攻撃を加えても良い(その攻撃は必ず正当である)」という構造を取っている。結局のところ、どちらも「相手に非があれば、その尊厳を奪うことも暴力を振るうことも許される」という、暴力の正当化を行っているに過ぎない。暴力の対象が被害者から加害者へ、暴力の場所が現実からSNSに移り変っただけだ(暴力の再生産)。この二つの論述は、この点で非常によく似ているのではないか。
→「悪(加害者)を倒す為なら、悪(加害者)と同じ手段を(第三者が)行使しても良いのか」
[3] 私の主張に対して予想される反論と、それ等に対する私なりの回答
(Ⅰ)法治主義という建前への不審 -日本は機能的な法治国家か-
私の主張はすべからく現代日本が機能的な法治国家であるという前提のもとに語られているが、「法律や制度が、これまでにどれだけの被害者を救済し、加害者に正当な処罰を与えたのか」という点において詭弁だ、という主張だ。
現実の司法では、残虐な暴行を働いた少年少女は、「少年法」によって保護され、数年も経たないうちに社会復帰を果たし、何食わぬ顔で人生を謳歌する。つまり私の主張は、「機能不全を起こしている制度を盲信し、目前の悪を見逃す、無責任な静観」だと言える。
→反論に対する回答
法律や機関の不完全さを、個人的な暴力で埋めようとする行為は、「正義」では無いのではないか。
制度が正しく機能していないのであれば、先ずなすべきは「公的な解決に動くこと」であって、匿名が確約されたプラットフォームで、何のリスクも抱えずに石を投げられる大衆による無責任な攻撃ではない。私刑が常態化すれば、被害者は本当に救済されるのだろうか。寧ろ、声の大きいものが常に正しいとされる、「声の大きさによる支配」が台頭し、社会はより不条理な場所へと変質するのではないか。
(Ⅱ) 加害者の人権を考慮する意義
「他人の尊厳を徹底的に踏みにじった者に、なぜ人権という守りが必要なのか」という主張だ。被害者が味わった痛みを加害者にも等しく味わせることでしか、真の痛みの共有や反省は促せないという論述は、「やられたらやり返す」という根源的な等価交換の原理に支持される。
→反論に対する回答
加害者の人権を守ること、これは彼らを甘やかしているのではない。何人に対しても法律に基づかない恣意的な暴力は振るわない、という絶対的な立場を死守するためだ。その立場に反して、「悪には何をしても許される」と例外を認めてしまえば、その「悪」の基準は潮流や集団の風潮や気分でいかようにも書き換えられてしまう。法律はそれではいけない、法律とはもっと普遍的なものだ。古今東西、津々浦々、そのどこかしこで通用するものでなくてなならない。
(Ⅲ) 思考の類似性への反論 -正義と悪の境界線-
私は、私刑と虐めの構造(あるいはそこに至る思考回路)は、本質的には同等なのではないかと指摘した。それに対する反論に、「無実の者をいたぶる虐めと、悪行を働いた者を罰する社会的制裁を同列に並べ語るのは、ただの詭弁だ」があると思う。悪(加害者)を糾弾することは社会の洗浄であり、見せしめであり、抑止力であるが、それらと虐めを同質だと断じる私の視点は、「冷笑的な傍観者」のように感じられるのかもしれない。
→反論に対する回答
動機がどうであれ、「多数派が安全な立場から、特定の個人を徹底的に追い詰め、再起不能にする」というその手法が、根本では同質的なものなのではないか。義憤を動機にしていれば何をしても許されるという論理は、いじめの加害者が「正当な理由があった」と主張するのと構造的に何ら変わりがないのではないか。
[4] if
「もし、法律が機能不全に陥った状況下で、あなたの最も大切な人が被害に遭った時、それでも尚私は、「私刑は暴行と本質的には同等の構造を取る」と理性的な一線を守り通すことができるか?」
無理だ。無理に決まっている。
理性では暴力の連鎖を否定しているが、感情の極北においては、私もまたその連鎖に呑み込まれる可能性がある。この、「個人の情動(復讐心)」と「社会の理性(法治)」のズレについて、さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい
(Ⅰ)「私」と「社会」の境界線
私が認めた「大切な人が虐めという名の悲劇に見舞われた時、理性的ではいられない」という感情は、私刑を肯定する群衆の心理と地続きのものかもしれない。しかし、ここには決定的な違いがあるのではないか。
当事者の痛み......「大切な人のために」抱く怒りは、あまりにも個人的で、切実で、生々しい、責任を伴う痛みだ。
群衆のエンターテインメント......一方で、SNSで私刑に加担する多くの人々は、当事者ではない。にも関わらず、彼らは他人の悲劇をまるで流行りものかのように消費し、安全な場所から「正義」という体裁の石を投げているだけに過ぎない。一体、加害者を糾弾する言葉を投稿するユーザーのうち、どれ程の人が純粋な被害者救済を思ってその手を動かしている?
この最大の問題は、「実際の世界を生きる一個人に起きた切実な悲劇」が、SNSという装置を通すことで「無関係な大勢の娯楽」に変換され、正当化されてしまうことにあるのではないか。
[5] 結論
これまでで述べたように、昨今のSNS空間で私たちは、「虐め」という明白な悪と、それを断罪しようとする「私刑」という二つの暴力に直面している。一見するとこれらは「悪」と「正義」の対立に見えるが、その深層を分析すれば、両者は「個人の属性や落ち度を免罪符に、個人の尊厳を徹底的に破壊する」という同一の暴力構造を共有していることが浮き彫りになる。加害者が行う暴行、傷害は、当然許されざる罪悪だ。然るべき処罰を受けるべきだ。しかし、それに対する私刑もまた、匿名性という強大な武器を味方にした「もう一つの暴力」に他ならない。相手に非があれば何をしてもよいという論理は、加害者が抱く「相手に非があるのだからこの攻撃も正当化される」という歪んだ認知と鏡合わせであり、この連鎖を許容することは、社会全体が「力の論理」へと退行することを意味する。もし、誰もが自分の感情のままに正義を執行してしまえる社会ならば、私たちは際限のない報復の連鎖、「万人の万人に対する闘争」へと逆戻りする。それよりも、私たちが真に向き合うべきは、特定の「加害者」を排除すること以上に、「自分自身の中にも、条件が揃えば(虐めの対象が大切な人だった場合、等)理性を失い、匿名性の元に正義を盾にし石を投げかねない攻撃性が潜んでいる」という事実を自覚することにある。
◎本当の結び
本稿を通じて私が試みたのは、特定の個人や集団を糾弾することではありません。SNSという巨大な感情の奔流の中で、私自身も含めた「人間」が陥りやすい危うさを、冷静に見つめ直したいという切なる願いがその動機にあります。
もし、ここまでの記述を読んで、皆様の心の中に小さく波立つもの、あるいは「引っかかる何か」があったとするならば、どうかその感覚を消さずに、今一度、ご自身の日常やSNSでの行動を静かに内省していただければ幸いです。それは、私たちが「正義」の名の下に、知らず知らずのうちに誰かの尊厳を削り取っていないかを確認するための、大切な立ち止まりの時間になると信じています。
最後になりますが、私は本稿を「唯一の正解」として提示したつもりはありません。私の論考を踏まえ、皆様がどのような意見や感想を抱かれたのか、ぜひお聞かせください。
たとえその意見が、私が本稿で示した立場とは真っ向から対立するものであっても、私はそれを歓迎します。なぜなら、極端な二項対立を乗り越えるための「中庸」や「バランス」は、相反する意見がぶつかり合い、対話を重ねるプロセスの中にしか存在しないからです。
あなたの言葉を、どうか共有してください。その対話こそが、私たちが理性の防波堤を共に築いていくための一歩になると、私は確信しています。
আপনি মন্তব্য করতে লগ ইন করতে হবে : লগিন করো
- লগিন করো
-

- রান্কিং পোস্টগুলি
-
1.
【期間限定】ウメディアのやつらの物真似大会 by.いおその
৭ ফেব্রুয়ারী, ২০২৬ ২:১৪:২৪ পূর্বাহ্ণ -
2.
【速報】ブログ系男子の予測変換を晒してみたwww by.ブログ系男子
৭ ফেব্রুয়ারী, ২০২৬ ৩:৩০:২৫ পূর্বাহ্ণ -
3.
ゆあるがやってた企画をやろうと思う! by.月影
৭ ফেব্রুয়ারী, ২০২৬ ৫:২৬:৫১ পূর্বাহ্ণ -
4.
【語学】「中古訓読語(漢文訓読語)」を解説してみた‼️ by.ブログ系男子
৭ ফেব্রুয়ারী, ২০২৬ ৫:৩৯:২৩ পূর্বাহ্ণ -
5.
ゆあるーむさんがやっていた診断をやっていこうと思う by.はっさく
৭ ফেব্রুয়ারী, ২০২৬ ৬:৫৪:২১ পূর্বাহ্ণ - অধিক

